キミたん本@フィンランドの詳細

こんなことが書いてあるらしいよ。今すぐ英語版を出して下さいお願いします本当に
Petri Nevalainen: The Iceman – A Portrait of Kimi R?ikk?nen
Excerpts from the book translated by Raymond Carter
1987年のある晴れた日。2人の男の子がモーターのついた車で、エスポーの家の庭を来る日も来る日も走りまわっていた。彼らの両親の忍耐はついに尽きそうだったけれど、庭の雑草が耕された土地のようになるので、彼らは兄弟のドライブに反対しなかった。幸運にも近所にカートトラックがあったので、そこを走るチャンスがあって、ライコネン家の兄弟はとても喜んだ。これが、キミ・ライコネンのモータースポーツ界への、カラフルな旅路への始まりであった。長く曲がりくねった道の先に、ライコネンが熱望した目標は輝いていた──伝説的なフェラーリ・ブランドを駆って荘厳に成し遂げた、はじめてのF1ワールドチャンピオンシップ・タイトルだった。2007年シーズンにおけるドラマに欠落はなかった。ブラジルでの最終レースの興奮は、ライコネンと彼のファンの血と汗と涙を誘った。1位で戻ってくることは完全にサプライズだった。それを達成することは、多くの物事が適切にぴったりと収まる必要があった。シーズン中、何度も何度もチャンピオンシップへの可能性は消えていくように思われた。しかしフィンランド人のそのドライバーは、信頼を決して失うことはなかった。
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お金のかかる趣味であるカートに向ける彼の熱意は、ライコネンの家族に厳しい選択を迫った。家の改装と屋内のトイレか、トラックでの新たなシーズンと屋外のトイレか。家族会議は、いつも通りキッチンテーブルの周りで行われた。決定は下された。家の改装を延期して、トイレは屋外のままにして、キミがサマーシーズンを送ることができるようにした。弟がついにドライビングによって十分な金銭を稼ぎ始めた時、家の改装はついに行われた。トイレだけではなくて、他の多くの場所も。2008年にガーディアンのリポーターが、2000年にザウバーと初めてのF1契約をした時にも屋外のトイレを使っていたのかライコネンにインタビューした。都会に住む英国人にとって、屋外のトイレというものはエキゾチックで驚くべきものだった。リポーターが氷点下の冬に屋外のトイレを使うことが一体全体どうして可能なのか彼に尋ねた時、ライコネンは答えを準備できていた。「簡単だよ、早くやればいいんだ」
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カート時代に整備士をしていた親友Kalle Jokinenとの旅
彼ら2人は、デビッド・ロバートソンとのミーティングのために、ぼろぼろのルノー・クリオでロンドンへ出発した。場所は、ブランズ・ハッチのシスルホテルだった。フィンランド人のミカ・ハッキネンとミカ・サロがイギリスF3で戦っていたいわゆる「ミカ-ミカ-イヤー」の1990年に、ロバートソンと息子のスティーブはトラックにいた。ライコネンとJokinenはオランダとフランスの国境で足止めされていた。車両についていたオランダのナンバープレートに問題があった。国境警備は2つのフィンランドのパスポートと車を見て、手を振った。「この(フィンランドの)パスポートにこの車。…うーん、この車を運転する許可が(2人に)あるとは思えないのだが」 2人のフィンランド人は車の向きを変えて、来た方向に戻って出発するほかに仕方がなかった。他の国境を見つけるために地図を探した。
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近くで働いている人々は、ライコネンに対するロバートソン親子の振る舞いは崇拝とも呼べると語った。彼らの保護についてネガティヴな事を言うのは難しい。このアプローチはおそらく、彼らの初期の関係と、フォーミュラルノーにおけるライコネンの成功に更なるルールが必要だったことに基づく。ある時、キミがポールポジションを得られなかった時、ロバートソン親子は調査を行った。彼らは、ライコネンがタイムトライアルの直前に電話をしたことを思い出した。キミの母であるポーラと、彼の当時のガールフレンドとの意見の行き違いについてだったと特定された。ライコネンは彼のマネージャーに怒鳴り、プライベートがこのような形で二度と干渉してこないように要求したという。デビッド・ロバートソンは何が悪かったのか知るために最善を尽くしただけだったが、ライコネンはその方法に明らかに動揺していた。
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2007年、フィンランドの夏休みは角を曲がったところで、F1ドライバーのシーズンも半分のところにきていた。北米ラウンドの2戦目、シーズン7戦目であるアメリカGPはインディアナポリスで行われる。家から遠く離れた場所で、多くの気の散る考えがキミ・ライコネンの心をよぎっていないはずがなかったとしても、彼はそんな素振りは見せなかった。しかし彼の旧友、Kalle Jokinenと話したいという願いは彼の心を去らない。Jokinenによると、インディアナポリスの週末、彼が友人とカラオケバーにいた時、彼の携帯電話が鳴った。相手はライコネンだった。マクラーレンに差をつけるために、クルマを改良する仕事がとてもたくさんあるんだ、と話した。そしてキミは、(Jokinenの)背後のノイズから、友人が仕事中でないと分かった。「僕のために『トラックドライバー』を歌ってもらえない?」と彼は言った。「歌っている間、電話を繋いだままにしておいて欲しい。時々ここでは少し孤独だから」Jokinenはライコネンのお気に入りであるMatti Eskoのバージョンを声の限りに歌った。もうひとつのキミのカラオケのお気に入りは、Kari Tapioの「ポールポジション」だ──理由は明白だ。友人に感謝を告げ、ライコネンはまたあとで連絡すると話した。
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ライコネンのファンは最終ラップ、ニコ・ロズベルグとロバート・クビサ、ニック・ハイドフェルトが4,5,6位争いをしていたので、余計な神経をつかわなければならなかった。彼らが互いを倒すためだけにドライブしているだけだったとしても、彼らの最終的な結果がチャンピオンシップの結末に影響を及ぼすからだ。全く予想外だったけれども、彼らはより大きな戦い(=チャンピオンシップ)の決定者の役割を与えられた。誰もがライコネンとハミルトンに焦点を合わせていたのが、この三者の激しい争いがコンペティションの核心へと移った。彼らは幾度も、互いをサーキットから押し出そうとしている様子だった。タイヤは煙を吐き、ブレーキはロックしていた。それでもトリオは走り続けた。運はとうとうライコネンの側に向いた。彼はレースに勝った。ハミルトンは7位より上に上がることはできなかった。この素晴らしい瞬間は、ライコネンがワールドチャンピオンシップに勝つ3人目のフィンランド人になることを意味した!「言葉が見つからない」と彼は勝利の後に話した。「僕の感情はとても強い」
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「キミの仕事に関する集中は絶対だ。彼は成功したくて、要求されるモチベーションを持っている。物事の進み方によって常にハッピーなわけではないという点で、彼も普通の人間なんだ。チームはあらゆる点で彼を支える。そして結果は素晴らしかった」とジャン・トッドは語る。彼によれば、ライコネンは2007シーズンにおいて、不必要な不満は1つたりとも溢さなかった。「それが彼のやり方だ。必要な時に口を開く。正当な理由がない時には話さない。一緒に働きやすい男だよ。ポイントに真っ直ぐに向かって、本質に集中する。要求される状況によって、YesかNoを言う。チームにとってこれは良かった。彼の答えは常に明確で、問題が何であったのか迷うことがなかったからだ」
アメリカでそんなことがあったなんて…。次があのターニングポイントとなったフランスだからね。大事な時期だったんですね。

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